思った、感じた。

練樹工房ナルサワマナブ、 日々の暮らしで 思った、感じた。

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時間の厚みと風の音

青森へ、旅をしました。

空は良く晴れ、

車の窓から入ってくる湿った空気を

皮膚と鼻で感じながら

海沿いをゆっくり走りました。

その道中に僕のお気に入りの場所があり、

そこに車を停めました。

長い間走ってきたので

ちょっと一休みです。

海辺のコンクリートの縁に腰掛け、

お昼ご飯におにぎりをかじりながら、

二人で海を眺めます。

海からの風が

ジュアの短い毛を撫でて躍らせます。

あまりにも気持ちの良い風が吹くもので、

僕らはゴロンと横になり、

何となく風と波の音を聴きました。

空を眺め、そして目を閉じ、

優しい風の匂いと感触を

全身で確かめているうちに・・・



気が付くと、いつの間にやら眠っていたようでした。

時計を見ると30分ほど過ぎています。

30分間、夢の世界へショートトリップ。

何かの夢を見ていたのですが、

目を覚ますと、何も覚えてはいませんでした。

只断片的な光景が見え隠れするだけで

どんなストーリーだったかは

まったくはっきりしません。

しかし風と波の音だけは、

夢の中でも鳴り続けていたような、

そんな気がしました。



ボーっと辺りを見回して、煙草を一服。

「あぁ、海だなぁ・・・海なんだなぁ・・・」と、

なんだか夢の中で夢から覚めたような、

そんな不思議な感覚に包まれながらも、

僕らは一路、青森に向かいました。





翌朝。

天気は良くカラッと晴れており、

青空に雲が浮かんでいます。

気温は時間と共に上がってゆきますが、

車は日陰に停めてあるので涼しく、

僕は車のドアを開け、シートを倒し、

ドカッとだらしの無い格好で

椎名誠のSF短編集を読んでいました。

やはりここでも風は優しく、

そして波音の代わりに木々がざわめく音が

僕等を包み込んでいます。

忙しない日々の時間の中で、

こんな風に自然が鳴らす優しい音に囲まれて

愛する者と静かに過ごすことが出来る・・・。

こういうことが本当の贅沢というのでしょうか。

こんな風景に僕は、

幸せを感じずにはいられません。




その夜、酸ヶ湯温泉に行きました。

今日の汗を流し、

ゆっくりと湯に浸かり、

目を閉じて息を吐く。

ふと天井を仰げば、

そこにはいつかの古い古い時間が

今の僕らの時計の針よりもずっと、

ゆっくり動いているようでした。




時が流れているとするならば、

その感じる速度は各々違うのだと思います。

それはその生き物の寿命の長さと

比例しているような気がします。

平均寿命が約15年の犬と

平均寿命が約80年の人間と

何百年、何千年も生き続ける樹木。

樹木に意識があるかは謎ですが、

もしあったとしたら、

何百年、何千年も生きている、というのは

どんな気がするのでしょうか。

もし、僕達人間が

何百年、何千年も生きられるとしたら

その生涯に一体何を想い、

何を感じるのだろう・・・。

そんなことを、

長い年月を経て大木になり、

そしていつかの昔に伐採、製材され、

ここで長い間屋根を支てきた、

この大浴場の古い天井に架かる

大きな梁を見て想い、

そしてふと考えました。





犬の寿命は、短い。

僕ら人間が、たとえば15歳でこの世を去ったとしたら

それは短い人生です。

もっとやりたいことがあっただろうに・・・

生きていれば、楽しいことが沢山あっただろうに・・・などと

嘆き悲しむくらい、人間が15年で死ぬということは悲しい事です。

犬が、自身の寿命を短いのか、それとも長いのかということを、

人の寿命と比較して考えることは無いと思いますが、

時間の流れの速度の感じ方とは逆に、

寿命というものが存在する限り

時間の厚みという感覚は皆同じなんじゃないか、と

僕は思うのです。

実際のところ確かめる術はありませんが、

そう考えると、

自分達人間よりも寿命が短い生き物が

自分より早く生まれ、

自分より早くこの世を去ってゆくという

ある種の悲しみは

多少なりとも救われるのではないでしょうか。



もし僕達人間が

樹木のように何百年、何千年も生きれたとしても、

その時間の厚みの感覚は

今と変わらないのかも知れません。

犬達の一生の中で

いくつもの小動物や虫達が生まれて死に、

人間の一生の中で

いくつもの犬や猫達が生まれて死に、

樹木の一生の中で

いくつもの人達が生まれて、そして死んでゆく。

生き物に与えられた時間の厚みの感覚が

皆一律同じだとするならば

どんなに寿命が長かろうと短かろうと

その一生が充実したものならば、

それは生まれて良かった、

生きてきて良かったと

そう思えるのだと思います。



それならば僕達は日々、

何を目的に生きてゆけば良いのでしょうか。



犬はいつの時も、自分の欲求を

真っ直ぐに僕にぶつけてくれます。

喜び、悲しみ、淋しさ、激昂。

いつの時も、それらの感情を

体一杯使って表現している犬達は、

自身がいつ死んでしまったとしても、きっと悔無く、

自身に与えられた命を、時間を、

しっかりと全うしたという満足感をもって

死んでゆけるんだろうと、そう感じます。

それはなぜか。



生きている者は、一体何のために生きているのか。

一体何のために生きていこうとしているのか。

社会的な生き物としての役割ということを別にすると、

「何のために生きているのか」という答えは只一つ、

それは幸せを感じるためなのだと、

僕はそう思います。

いつも、いつの時も、

何かの匂いを嗅いでいるジュアとヨズキ。

それはきっと彼女らが彼女らなりの

幸せの匂いを嗅いでいるのだと、

そう思いました。

あの黒く光る立派な鼻と

透き通る純粋な眼で

いつも、いつの時も

犬達は精一杯、

何かを感じ、何かを求め、

何かを嗅ぎ、何かを見つめて、

そうして幸せを探しているのです。

そんな彼女らの純粋で真っ直ぐな姿は

僕の心に一つの答えを

投げかけてくれるのです・・・。






熱い湯に浸かりながら

そんなことを考えていたら

いつの間にかのぼせ上がりそうになっていました。

我に返って湯から上がり、

しばらく荒い息を吐きながら

湯船の縁に腰掛ました。




さぁ、もうそろそろ上がろう。

ジュアも暑い車の中で待っている。

二人で外に出て、

そして風に当たろう。

きっと今も、

優しい風が吹いているだろう。

風は僕等を通り抜け

どんな音を聞かせてくれるだろう。

優しい風に吹かれよう。

それが今の、

今の僕らの幸せだ。



そういえば酸ヶ湯に着いた時、

この古い建物の真上に

大きな虹がかかっていました。

その事を思い出し僕は

いつかの古い古い、大きな天井を

もう一度、見上げたのでした。
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  1. 2014/07/14(月) 01:24:36|
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哀愁と希望に満ちて

忙しく充実した夏の日々は

いつの間にか過ぎてゆき、

頭を重そうに垂らした稲穂はいつの間にか刈られ、

気づけば秋も半ばに差し掛かっています。




9月。

稲穂の少し上を舞うアキアカネの群れは

稲穂と共に夕陽を浴びて黄金色に光ります。

それはまるで、成熟した籾(もみ)が

心地よく風が吹く夕刻に我慢できず、

いく粒か飛び出し、羽を生やし飛び回っているように見えます。

秋というこの日を、今という時間を、

しおらしくも謳歌しているように見えました。

稲穂と同じ色に輝くアキアカネは、

まるでそういった田んぼの妖精であるかのように、

黄金色の粉を撒き散らしながら

あっちへ行き、こっちへ行き、

少しずつ移動してゆきます。


犬達は、眩しそうに瞼を半分だけ閉じ、

その光景を見つめていました。

僕達三人は、ある秋の一つの風景の中にいました。



夜の虫の音が変わりました。

夜はめっきりと涼しくなり、

鈴虫は涼しげに羽を震わせ、

秋の夜を詠います。


物を言わぬ犬達は、秋の訪れをどう感じ取っているのでしょうか。

静かに光る田んぼの風景を見つめたとき、

涼しげな秋の羽音を聞いたとき、

そんな時、犬達の哀愁漂うその表情には

はっきりと「秋の訪れ」を認識している。

そう思える何かがあるようで、

それを見ると僕は

例えようの無い感動を覚えます。



10月―・・・。

西日が黄金色に輝くこの時期、

ふと風に乗って、金木犀が香ります。

その香りは鼻孔からすぐさま脳へ達し、

その中にある「心」という器官に届き、

僕はいても経ってもいられなくなります。


僕は金木犀の香りが好きです。

記憶の原野の中で確固たる意思を持って、

僕が今、秋の真っ只中に居ることを

はっきりと認識させてくれるからです。


旅の道中、窓を開けて車を走らせると

いたる所で金木犀の甘く優しい香りがし、

僕の心をにわかに躍らせます。

黄金色に輝いていた田園は稲穂を刈り取られ、

充実した物悲しさを語り、

コスモスの花達は限りある短い時の中で

その時間を謳歌するように咲き乱れ、

そしてしかし、やはり物悲しく風に揺れています。


そんな光景を目の当たりにし、

その風景の中にいるとき、

僕は秋の只中にいることを静かに確認し、

来る厳しい冬を漠然と思い描きます。


金木犀が香り、

コスモスが風に揺れる秋の真ん中で

近い冬に思いを馳せる。

隣で眠っているジュアの寝息を感じながら

こんなに幸せな事があるものだろうかと、

僕は車を走らせました。





季節がいつの間にか確実に変わってゆき、

僕もジュアもヨズキも

その季節の移り変わりと共に

心と身体をそれに合わせてシフトしてゆく。

それは当たり前のことで、

当たり前のように繰り返してきたことですが、

「今」しかない現実の中で

毎年繰り返して見るこんな光景が

この当たり前の事実を囁き、

いつもなぜだか、僕の心を奮わせるのです。




季節の変わり目。

それは生きる者にとって

少しずつも確実に歳を重ねてゆく事を実感させ、

また新たに明日を見つめさせてくれます。

それは身体と共に心を成熟させてゆく僕らの

ある種の道しるべのようなものなのかも知れません。

この秋、犬達が感じ取った道しるべは

彼女らをどう導いてゆくのでしょう。



ジュア8歳、ヨズキ7歳半。

彼女達はこの秋を、何を感じ何を思って迎えたのでしょうか。

人間より遥かに早く歳を取ってゆく彼女達にとって

季節の移り変わりというのは、

いったいどういう意味を持つのでしょうか。



秋の黄金色に光る風景に佇む彼女らの

哀愁に満ちたその顔を

僕はどんなに愛しているか

わからないのです。
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  1. 2013/10/14(月) 21:58:53|
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ある日、心は旅をした その1

この夏のある日




岐阜県のある山奥で。







悠久なる大自然の中




川縁に腰を下ろし




岩魚が悠然と泳ぐ水面を眺めながら




火照った体を休める。




川の流れの音で自分の声すら聞こえない。




だが、不思議とここは静かだ。




自然が発する音の中で




水流が生み出すそよ風を浴びる。




羽が赤く燃え、胴がエメラルドグリーンに輝く二匹の蜻蛉が



ヒラヒラ、ヒラヒラと目の前の瀞場を舞っている。




あれはなんという名の蜻蛉だろうか。




同じ所を行ったり来たり




その蜻蛉達は互いを追いかけ合っているのだが




いったい何をしているのだろう。




その行動に何の意味があるのだろう。




ふと思ったのだが




出来れば、何の意味も無く舞っていてほしい。




今ここでこうしている、自分のために。







しかしいつしか僕は




蜻蛉が語る物語を




静かな心で聴き取っている。




「生きていることが無性に楽しいというだけで、




私達は飛び回るのだ・・・




ずっとずっと、飽きるまでずっと・・・。」




気がつけば二匹の名も知らぬ蜻蛉は




少しずつ移動を始め




僕の視界から消えてゆく。




また、川の流れる音が聞こえ出し




そよ風を感じ出す。







シンシンとどこまでも透き通る宝石の川と




ヒラヒラといつまでも舞い続ける宝石の蜻蛉と




太陽の光を全身に受け




キラキラと躍り続ける宝石の魚達。




いくつもの静かな宝石に囲まれた中で僕は独り




なんだか少し、淋しい気持ちになりましたが




いつしかウトウトとし始め




すぅと寝息を立て始めました。




蜻蛉達はどこか、葉陰から僕を見ていた事でしょう。




大きな空からこの光景を見ていた




大きな雲からしてみれば




それはそれは小さな、とるに足らない事だったでしょう。




雲はそんな僕に




優しい日陰をそっと




作ってくれました。







これは僕が




そんな心の旅をした




今年の夏の




お話です。


  1. 2013/09/12(木) 19:50:55|
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旅の途上の風の声

ある晩春の日、僕は犬との散歩から帰り




畑仕事に取り掛かりました。




小さい畑ですが、僕の大切な場所のひとつです。




鍬で土を起こし、鶏糞を撒いて撫ぜ込みます。




黙々と作業をこなし、一汗かいてふと顔を上げると




遠くの空で風が吹いている音が聞こえてきました。



ここは穏やかなものですが




じきにその風はここまでやってくるでしょう。




そう思っている間にほら、




遠い空で吹いていた風が




僕のいる畑にもやってきました。




草木はざわめき、蛙は一斉に鳴きだします。




汗ばんだ体に当たる風は




この上なく心地よく




しばらく僕は風に体を晒しながら




ぼぉっと空を見ていました。








するとどうでしょう。




なにやらどこかから、呟くような声が聞こえてきます。




その声は風の吹く強さに比例し




強く吹けば大きく、弱く吹けば囁くように




まるで僕に風が来たことを知らせているような、




そんな声でした。




風の又三郎でもやってきたのだろうか・・・。
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どうやらその声の主は




野菜の支柱に使う竹竿のようです。




風が当たると竹竿たちは




「ホォ~・・・」とも「ピィ~・・・」ともつかない




物寂しい音を響かせます。




空き瓶を吹いて音を出すのと同じ原理で




竹竿は鳴ったのだと思います。







畑で独り、その物寂しい音を聴いていると




それは遠く旅をしてきた風たちの




虚しい心の内を呟く声に聞こえ




それは積み重ねてきた年月の重さなのだと、




そう思えました。




どれだけの時間を




どれだけの距離を旅し




何を見て、何を聞き




そして何を想ってまた次の




終わりの無い旅に出て行くのか・・・。




風は只、吹くばかりなのです・・・。










晩春の空に、山に、畑に




そして自分自身に風が吹いたとき




僕は寂しさ、孤独さと同時に




何か得体の知れない喜びを感じます。




たとえばそれは漠然とした未来への希望や、




たとえば今までの宝物のような思い出や・・・。




そして畑で独り風に吹かれる、




そんな孤独で物寂しい風景、情景に身を置き




そんな思いを巡らしている事に




底知れぬ喜びを感じてしまいます。







風など今まで散々吹かれてきたし




これからもいつだって吹かれてゆくでしょう。




しかし、今日この場所で




この時に吹いた風に




何かを思う事が出来た。




そのことに幸せを感じたのでしょうか。









ただの風が、人の心に何かを与えてゆく。




それは物語や、歌や、詩や、感情だったりします。




人間にとって、人の心にとって




風とはなんなのでしょうか。






僕が今日、畑で何の気なしに聞いた




あの物寂しい音は




いつからか、そしていつまでか




永遠に旅をし続ける風が




その空しさを呟いた音だったのだろうと




そう、思いました。
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  1. 2013/06/25(火) 22:36:07|
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春の、最中

春、真っ盛りです。




少し前まで咲き誇っていた桜はもう、




とうに葉桜になり、




今は青々とした新緑の葉を




目を見張る速度で茂らせてゆきます。




つむじ風が、散った桜の花びらをクルクルと回し、




それを不思議そうに見つめていたジュアとヨズキの姿が、




つい先日のことなのに、なんだか懐かしく思えてきます。








今日もまた、ジュアとヨズキと3人で




春の山に散歩に出かけました。
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野にはタンポポが咲き、




蝶が優しくヒラヒラと舞い、




蛙が楽しげにゲコゲコと鳴いています。




時々少し、冷たい風が吹きますが、




すぐに陽の光が暖め直してくれます。




今年もまた、「春」を感じながら、




3人は野山を進みました。





散歩の途中にいつも寄る公園があります。




自宅から徒歩3分の場所にあるその公園には、




今年もおびただしい数のタンポポが、




まさに咲き乱れていました。
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タンポポには、もともと古来から日本にある在来種のものと、




いつからか外国から渡ってきた外来種のものがあるといいますが、




さて、この公園に咲き乱れていたタンポポは、




いったいどちらのものなのだろう・・・と




いつの間にかふと物思いに耽っていました。




しかしこれほどまでに「春」を演出してくれるのです。




そんなことはどうでも良いことなのだと




我に返って思いました。




1000年後、10000年後には、




西洋タンポポだって、




今騒がれているブラックバスだって、




在来種になっているかも知れないのだから・・・。






この公園が大好きなジュアとヨズキは、




着くなり早速あちこちの匂いを嗅いで回ります。




いつも通っている公園ですが、




今日はどんな匂いを嗅ぎ、




何を想っているのでしょうか。
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春真っ盛りの今日。




しかし春は、足早に過ぎてゆくでしょう。




そうして足早に訪れ




足早に僕らを通り過ぎてゆく春は、




僕らが今日も




ここにいる事実を




心に語りかけながら




次の季節を連れくるのです。




芽吹く新芽と




風に揺れるタンポポと




忙しく春の匂いを嗅いで回る




ジュアとヨズキを眺めながら、




そう、思いました。
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  1. 2013/05/08(水) 23:06:09|
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